2011年5月22日日曜日

今日の新聞から

【日本経済新聞 春秋】

とらわれの身のある日、看守の外套のポケットに本が潜んでいるのを見つける。やっと盗んだのは案に相違してチェスの手引書だった。中身をすべて頭に入れてしまった男は釈放ののち、たまたま出会った世界王者と舶上で対戦し…。

▼オーストリアの作家ツヴァイクの「チェスの話」は筋書きが面白いだけでない。一冊の本が持つ力の大きさも訴えかけてくる。この小説を薦めてくれたのが、先日77歳で亡くなった本の虫の俳優、児玉清さんだった。好きことを語る人はこれほどまで楽しげなのか。そんな思いで話を聞いた11年前を記憶している。

▼「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)の人物)」。そう断じられて、デンマークのラース・フォン・トリアー監督がカンヌ映画祭から追放されたという。「ヒトラーに共感する」との記者会見での発言が理由である。そのニュースに「チェスの話」を思いおこした。小説のテーマが実は反ナチだったからだ。

▼追放に賛否はあったようだが、映画祭の決定は有無を言わせぬものを感じさせる。「表現の自由に優先し口にしたら絶対許さない言葉がある」というような。チェスに託して作家がヒトラーヘの憎しみをつづったのは大戦中だった。その僧しみをいまも共有せねばならないのだという覚悟は、やはり敬服敬に値する。