2014年12月18日木曜日

切り拓く 愛知県がんセンター開設50年(中) 人材輩出

(2014年12月9日) 【中日新聞】【朝刊】

若き才能集結、先端研究

DNA画像のフィルムを持つ手が震えた。

 1989年、米国の国立がん研究所。当時、愛知県がんセンター研究所から留学していた高橋隆・名古屋大教授(59)=分子腫瘍学=は肺がん患者の遺伝子の画像で、一部が明らかな異常を示していることを発見。この遺伝子が肺がん抑制に関与していることを、世界で初めて明らかにした。

 この報告が、肺がん増大の仕組みを遺伝子レベルで解明する起爆剤に。「がんセンターで学んだ遺伝子解析の基礎が生きた」

 60年代から80年代は、がんを遺伝子レベルで調べる分子生物学や免疫の研究が本格化。だが、国内では大学でも研究は十分に進んでおらず、研究所と病院を併せ持つ専門施設のがんセンターに、現在の日本を引っ張る医学者の卵が続々と集まった。

 肺の外科医だった高橋さんは手術の限界を感じ、29歳で研究所へ。遺伝子解析の第一人者で現在、理化学研究所(理研)バイオリソースセンター(茨城県つくば市)長の小幡裕一さん(66)が同じ研究室におり、最新の遺伝子操作や管理手法を学んだ。

 免疫細胞の働きを抑える「制御性T細胞」を見つけ、ノーベル賞候補の呼び声も高い大阪大免疫学フロンティア研究センター長の坂口志文(しもん)特別教授(63)=免疫学=も研究所に所属した。京都大大学院生だった40年近く前、マウスの胸腺を取ると胃炎などの自己免疫病を発症するという、研究所の「面白そうな」実験にひかれ、大学院を中退。がんや自己免疫病の治療につなげることが期待されるT細胞の発見は、この研究が原点。「がんの免疫では世界のトップレベルだった」

 若く有能な研究者をひきつけたのは恵まれた環境。開設10周年の業績集によると、開設前に当時の桑原幹根・愛知県知事が「全国から一流の人材を集めてほしい」と号令。当時の赤崎兼義所長が「設備もほとんど希望通りの物を買い入れることが認められた」とつづっている。

 日本のがん免疫研究の草分けで、愛知県がんセンターの元総長、高橋利忠さん(73)によると、高価な細胞の培養液、検査機器のほか、薬剤師、臨床検査技師らスタッフも大学をしのいでいた。高橋さんも名大大学院生時代、がんセンター研究所に入り浸り、環境は「米国に留学しても驚かなかった」という。開設翌年には当時のライシャワー駐日米国大使も視察に訪れた。

 研究所で基礎を学び、留学して最新の知識や技術を持ち帰り、後進に伝える。高度経済成長期。右肩上がりで税収の増えていた県財政が研究を支えた。

1970年代、電子顕微鏡で観察する試料を作成する超微形態学第一研究室の研究員ら
 世界とつながる研究所の熱気は、隣接する病院にも伝わった。「自分の科学への考え方の基礎を形作った」と話すのは、同センター中央病院遺伝子病理診断部長の谷田部恭(やたべやすし)さん(49)。研究者と病院の医師の間で頻繁に勉強会が開かれ、最新の研究成果に触れることができた。このときに培われた思考が、遺伝子レベルで個別に治療を考える現在の診断にも役立っている。

 血液がん研究の第一人者で、80年から15年間研究所に在籍した愛知医科大の上田龍三教授(70)=腫瘍免疫学=は、「患者の思いをどう基礎研究とつなげるか。患者を間近に感じるからこそ、少しでも早く成果を届けたいと考え、仕事ができた」。その思いは一昨年、白血病の一種で標準的な治療法のない難病の治療薬開発につながった。

 研究所と病院が互いに刺激を受け合い、質の高い医療を提供する。「そんな人材の“たまり場”としての余裕が、がんセンターの魅力だった」と上田教授。だが、そんな環境も少しずつ、変わりつつある。